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カオスの中を漂流する個人

 昨日は精神病院に行きました。ことしになって数か月仕事にいけないでいる身内がいるためです。
精神病院や心療内科を訪ねたのは今回が初めてではありません。過去4か所くらいの病院をおとずれています。最初に行ったのは何十年もまえのことで、このときの先生はとてもよい先生でした。きっと大変多忙のために病気になられたのではと思いますが、亡くなられています。患者や子どもたちのために休日も使って、親や子と話し奔走されていましたから、とても残念です。
 今回の病院かなり期待していったのですが、疑問がのこりました。大勢の患者がいて診療時間は15分、淡々とすすみます。その診療は自信に満ちていて、簡単な質問と処方です。話したいこと、聞きたいことがあったのですがそんな時間もありませんでした。私は身近な家族として担当の先生と話がしたいと電話で申し入れしていたのですが、別の時間ではなく診療時間に同席になりました。次の診療は3週間後で本人だけでした。先生のお話を聞く機会は今も持てません。患者が多く時間が取れない事情をどの病院もかかえているのでしょうが、これで何かわかるのだろうかと疑問が残りました。でもそれが現実の精神医療の実際の姿なのかと思いました。

 人が心を病むのはなぜでしょうか。
 病むことが悪いことなのではなく、物事との適応状態が良いか、悪いか、問題があるかどうかで病むのは当然ともいえると思います。適応状態がうまくいっていない時、問題があるとき心を病むわけで、その結果様々な表現、状態になります。意欲がなくなって鬱になるかもしれません。人が怖くて話すことも外に出かけることもできなくなって家にこもるかもしれない、苦しい自分に憤りを感じて、自罰的になってリストカットをしたり、摂食障害を起こしたり、アルコールに逃げたりするかもしれない、あるいは他人に責任を転嫁して攻撃的になったりと様々な反応がおこります。
 適応は相手(対象、自分のこともある)との関係の問題で心を病むことが問題なだけではない、関係の問題なのだと思います。


 対象との間の関係にどのような問題があるのか。利用、依存、支配、拒絶や無視、援助などになるかもしれません。
 その中で、自分の利益のために対象を利用するとき、それが一方的な関係である場合、また同じように依存も一方的な依存状態、さらにそれが支配関係にまでつながったとき、利用される側、依存される側、支配される側には不満や自己不全、無力感が生まれ、否定や無視などの関係でも生きる力を消滅していきます。
利用する側、支配する側は相手に悪い影響を与えていることに気づかないでいたり、その利用がなければ自分が成り立たないという存在の危うさを持っていることに気づかないでいることがあります。どちらにとっても良い関係とは言えないものだと思います。
 一方的な力関係ではなく、お互いを尊重して自立している場合は助けられたり助けたり、場合によっては援助であったりするでしょう。
 家族や職場、学校、大きく言えば国の関係でも、、様々な人間関係において尊重と互いの自立の課題は大切です。良い関係であるかどうか、歪んだり悪くなっている場合、修正していくことに敏感でなければならないし、被害者である場合は特にそういう立場に置かないことを考えなければならないと思います。そういう意味で自分とのかかわり、戦いになりますね。

 身近な関係から自立した尊重する関係を作りたいと思いますが、その時心掛けたいと思っていることがあります。
全てゼロから、すべての前提をとりはらって、前提になっているこれまでの判断があれば、その判断をすべて疑って事実から学びたいと思います。
 
 医者から帰って支援センターの人と話をしていた時、誤学習ということが話題になりました。
誤学習という言葉が使われていることをはじめて知ったのですが、思い当たることがたくさんありました。人間はたえずあらゆる機会に誤学習をしているのだと思います。あらためてお釈迦様がはるか昔に戒めていることを思い出しました。
 



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