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老人日記 3 

 老人の繰り言です。

 理想と現実の相克
 理想とはなにか、一人一人にその人の理想とか希望とかがあると思いますが、例外なくだれもが心に思うのは平和で、それぞれが安心して暮らせる社会のようなものを心の底にもっているのではないでしょうか。でも現実社会は苦界です。理想を考えず、理想を失い絶望し現実だけを優先したら何が起こるのでしょうか。勝つか負けるかの生存競争の世界、自己愛だけの世界になってしまいます。しかし人は自己愛だけではない、理想と現実の相克のなかで人として生きている。理想のない現実だけになったら人は人でない人間以下の何かになるでのしょう。
 朝テレビで放送されていた番組に思わずひきつけられてしまいました。残念ながら途中からで一部しか見ていないのですが、なんと優しい暖かな世界でしょう。野菜を作り、とりたての作物を安い値段で東京にある無人店舗で販売しているお母さんと息子さんの話でした。そのなかでお母さんがいわれていた一言、「今の社会はいいもの好き」という言葉に心が刺さりました。いいものだけが好きな社会が進んでいるように見えます。でもこれは考えてみたいこと、どうも一面的に思えるのです。A・Sニイルは「人類の将来の幸福は完全を求めないことにあるだろう」ということを言っていますが、その言葉を思い出しました。
 同時に辺見庸さんの「忍び寄る破局のなかで」を視聴していたのですが、現在進行している世界が人間の生態にあっているのだろうかという疑問は強く感じていました。一面で命が削られ命がころされる世界が進行しているからです。でもそれはコーテイングされ、絶望することにさえ慣らされています。いま人間の根源から諸価値の問い直しをする好機という辺見さんの言葉にそうでなければならないと強く思いました。



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老人日記 2

 過ぎた時間を振り返ることが多い今、年寄りって昔のことばかりを言ってつまらないと言われそうです。自分が生きてきた八十年という時間を考えてみたくなって小説を書きました。なぜ書きたかったのか。あまりに錯綜した混沌のなかで長い時間苦しんでいたからだと思います。なぜ苦しいのかはっきりしないのですからどうしようもありません。もちろん自分にもはっきりしないのですから他人にわかってもらうことはさらに難しいことです。でも今年は少しちがった年のようです。余分なことを削り、あきらめるところは諦めてみると明瞭でシンプルな世界になりました。あとはできるだけ軽やかに暮らすことを考えたいと思います。
「人はなぜ何のために生きるのか」「人間ってなんだ」すべての人がこんな疑問を基本にもっています。しかし自分の答えを持つのは簡単ではないと思います。事実や真理はなにか、善いことと悪いことの区別さえ自分で判断するのは簡単ではありません。自分で考える必要なんてない、無駄なこと。すでに用意されているのですからという考えもあるかもしれません。でも生はたての時代関係でも同時代の横の関係でも一人ひとりが絶対で別のものです。どの生も大事であるべきだと考えています。親と子二つの世代を通して現代と人間ということを考えてみたいと思いました。印刷製本されてみると誤字や脱字など細かいところはもちろんですが、内容的にも不十分だと思えるところが出てきました。一応コンテストに原稿をおくりましたが本になるには読まれることに耐える内容でないといけませんから、むずかしいだろうと思っています。
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老人日記

今日も暑くなりそうです。むしむしと湿度がたかい。およそ30年前の夏を思い出す。その年私は長年勤めた図書館を六月いっぱいでやめて第二の人生をはじめた。来る日も来る日も暑い陽ざしが朝から街並みを照らしていた。茹だるような暑さのなかで人びとは競うように冷房を入れた。私はノースリーブのブラウスに短パン姿で玉のような汗を流しながら、洗濯物にアイロンをかけ、働いていた時に整理できなかったガラクタや本、衣類、家具などの整理に一生懸命だった。夏には夏らしくたっぷりの汗を流す、自然流の生活を考えた。次の年は夏のない冷夏だった。あの頃すでに異常気象という言葉が人々の頭をよぎっていた。しかし今年の夏の初めは日本の各地に発生した線状降水帯が大量の雨を降らし、甚大な被害をもたらした。豪雨、山火事、巨大竜巻、南極や北極の氷河が解ける、それらは一部にすぎない。地球があげる悲鳴のような現象はあの頃の比ではないと感じさせるような昨今です。
ウクライナとロシアの戦争が続いている。この戦争は来年の夏まで続きそうだという新しい予測がウクライナの政府筋から出ている。今ではこの戦争は全世界に深刻な影響を与え、全世界のものになろうとしている。破壊と殺しあいと人々への深刻な影響(特に力を持たない人々への深刻な影響)が拡大しているというのに、なぜ戦争はやまないのかと疑います。
 最近トルストイの晩年が気になるきっかけがあっって、ロマンロランの「トルストイの晩年」を読み始めました。最後のほうまでところどころ鉛筆の線が入っているので昔読んでいます。しかし中身はすっかりわすれていたのだが。トルストイは晩年仏教に近づいたらしい。
 ネットで目にしたある記事から  
日露戦争がはじまったとき、トルストイはアメリカのある新聞の質問に答えている。「あなたは、ロシア人と日本人のどちらの味方なのか」 
「私は、ロシア、日本、どちらの『国家』の味方でもない。戦争で苦しむ両国の『民衆』の味方である」と。「私はロシアの味方でもなければ日本の味方でもなく、良心と宗教と自己の幸福とに反してまで戦うよう政府によって横着(だますこと)され強制された両国の労働階級の味方である」(ビリューコフ著『大トルストイ』、原久一郎訳、勤草書房刊) 
 トルストイは日本の各界にも「日露戦争反対」を訴えた。メッセージも寄稿した。日本の仏教界に対しては「仏教の不殺生の精神に立って、非戦の運動に立ち上がってほしい」と呼びかけた。“仏教では「殺すなかれ」と教えているのだから、仏教者ならば反戦のために政府と戦うべきではないか”と。トルストイは晩年、仏教に深い共感を寄せていた。日本の仏教界への訴えの背景にも、仏教への信頼と期待があったと考えられる。 
 しかし、トルストイの訴えに対し、当時の日本の仏教界の代表は何と答えたか。 
「われわれは日本国の臣民である以上、戦争に協力せざるを得ない」(市川白弦著『日本ファシズム下の宗教』、エヌエス出版会刊) 
彼らは仏教という普遍の「法」よりも、特定の「国家」のほうを重視し、優先させたのである。、、、
 

 正義のための戦いがあると信じている人々がある。戦争が自分たちの利益である人々もいる。しかし正義とは何だろうか。正義のための無差別爆撃もあったし、戦いなど望まない多くの無辜の人々の死、子供、赤ん坊の死もあった。一瞬ですべてが消滅する原爆もつかわれた。生きることが奪われた。正義のための戦争とは何だろうか。
 昨今のリアリストを自任する人の考えは十人の死か、十一人の死かで、十一人を十人にとどめるための戦争であると考える。そして人を殺傷するための兵器、殺傷と同時に防衛のためにとどまるところを知らないまでに成長している。こうした産業は肥え太り、人びとの飢えや死より重要視される。
 ロマンロラン著「トルストイの生涯」に著者に当てたトルストイの手紙が載っていました。
 「生物たちはお互いに滅ぼしあっています。しかしお互いに愛し合ってもいるし助け合ってもいます。人生は生物たちのたがいの破滅によって保たれるものではなくて相互関係によって保たれるものであり、その相互関係は愛の感情として私には感じられるのです。私は世のなかの進み方というものが分かるようになってからこの方、人類の進歩がただ相互関係の法則によってのみ生み出されるものであるとみています。歴史というものはすべて全生物の連帯関係というただ一つの法則の、ますます明らかになってゆく理解と実行とにすぎないものです。・・・・」
 真理についてトルストイがたどり着いた答えが出ている、理解できる一節だと思いました。


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自己肯定について [思うこと]

自己肯定について
一寸の虫にも三分の魂、(自己)評価と(自己)存在の肯定とは別。
文明と文化はどう違うか、意味の違い
現代文明社会の光と影
自己肯定とはなに?真の自由とはなに?

最近よくいわれることがあります。自己肯定感を高めようという言葉にひっかかるところがあります。
自己肯定が優劣や能力の意味なら、私はとても低い。色々な意味でどうしようもない人だと思うことが多いからですが、能力や社会に生きていくうえで必要だったり大切だったりすることがあまがないような情けない人物だったとしても、私はその存在を大切にしたいと思います。
自分を大切にして愛したり、励ましたりしています。
文明は人の手で作られた構造物で、文化は人の生存、活動そのものだと思うのですが、その生存活動が評価や分断や紛争になるのはなぜでしょうか。そこに働いているのが自己愛という生存力だと思います。しかし人は皆自然界を含む壮大な関係性、相互扶助の網目の存在で、誰一人として自分ひとりで生きていける人は存在しない。川を流れ下った水が海に注ぎ一体となるようにあらゆる関係に境界はないとかんがえるべきでしょう。
私の家ではよくアメリカの西部劇がテレビで放映されています。とても動的で力の対決、力がないと生きていくのは難しいんだなと思います。
日本は周囲との協調が大事で集団思考が強い、アメリカがDO文化とするなら日本はBE文化といわれるようです。でもどちらにしろ一長一短があって、そこに自分がないとか他者が存在しないかだったら社会は歪み、網目は破壊されるか、一部の人だけが生き残る地球にかわるかでしょう。私は一部の人だけが生き残る社会であってほしくないと思っています。

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近況報告です。

ブログのアカウントも忘れてしまったくらい更新していませんでした。
何とか、やっとこそっとこ元気です。この一か月ほど何とか本の完成をしたいとパソコンの前に座って、何度も修正加筆を繰り返し、ときには朝食抜き、遅い朝食昼食一緒になったりしながら、やっと製本印刷の注文までこぎつけました。
目がしょぼしょぼ、視力の減退、足腰の弱り、家事の手抜き、これでは本の完成か、健康破壊かの二者選択状態で夫は何してんだかという気持ちでみていたことでしょう。
自己満足にもならないかもしれませんが、ともかく完了、製本発注したことでホットしています。
時々散歩する千葉公園、古代蓮が一番見ごろだったころからしばらくぶりです。千葉公園は工事中で通行止めの箇所が多く、ずいぶん遠回りを余儀なくされました。
そのときの写真です。
縮小サイズ.jpg 古代蓮


縮小さいず2.jpg
 アガパンサス

自己肯定感ってなに?
 自己肯定感って何だろうと考えてしまうのはひどく憂鬱な気持ちを払拭できないためかもしれません。なぜ憂鬱なのかと考えてみると必ずしも私自身、個人のことではないように思います。八十有余年生きてこれて、それなりに自分としては納得し有難たかったと思います。残されたわずかな時間もなんとか自分なりに生きていこうと思うのですが、もしそれが無理だったとしても悔いはないだろうと思います。それなのになぜ、憂鬱なのだろうかと考えるとどうしても人間の未来が明るいのだろうかという疑問から離れられないためのように思います。
私にも孫たちがいます。大切で可愛い彼らですが、彼らが成長したその時、世界はどういう世界になっているかを考えたとき、私は楽観的に明るい予想を手放しですることができません。利己的力の拡大は人間の本性の一面で、もし他者の存在への配慮、尊重がなければ成長はおろか、ゆがみと闘争の歴史を繰り返すことになるでしょう。あるいは一部の支配者の支配にゆだねられることになるかもしれません。
社会の実際の姿を見たとき、私にはとても人間的で幸せな社会には思えない、肯定できない、否定したいものを全部ではないとしても感じ、そういう現実への反発や忌避から逃れられない。もしそれが自己肯定感の低さだと人が言うなら、それは間違いです。人間は人間らしくありたいという願望が自己肯定の基礎だと思うからです。一部に強調されている自己肯定感を称揚し、自己否定を否定することは正しいことではないと思います。納得できないことを納得できないとし、いやだということを嫌だと自己の本心を肯定することが本来の彼の命を肯定することになるでしょう。
 ごまかしや偽善ではなく、本当の納得、肯定を目指して生きることが人が生きる意味ではないかと思います。それらが保証された世界こそ平和な理想社会なのではないかと思います。


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