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自己肯定について [思うこと]

自己肯定について
一寸の虫にも三分の魂、(自己)評価と(自己)存在の肯定とは別。
文明と文化はどう違うか、意味の違い
現代文明社会の光と影
自己肯定とはなに?真の自由とはなに?

最近よくいわれることがあります。自己肯定感を高めようという言葉にひっかかるところがあります。
自己肯定が優劣や能力の意味なら、私はとても低い。色々な意味でどうしようもない人だと思うことが多いからですが、能力や社会に生きていくうえで必要だったり大切だったりすることがあまがないような情けない人物だったとしても、私はその存在を大切にしたいと思います。
自分を大切にして愛したり、励ましたりしています。
文明は人の手で作られた構造物で、文化は人の生存、活動そのものだと思うのですが、その生存活動が評価や分断や紛争になるのはなぜでしょうか。そこに働いているのが自己愛という生存力だと思います。しかし人は皆自然界を含む壮大な関係性、相互扶助の網目の存在で、誰一人として自分ひとりで生きていける人は存在しない。川を流れ下った水が海に注ぎ一体となるようにあらゆる関係に境界はないとかんがえるべきでしょう。
私の家ではよくアメリカの西部劇がテレビで放映されています。とても動的で力の対決、力がないと生きていくのは難しいんだなと思います。
日本は周囲との協調が大事で集団思考が強い、アメリカがDO文化とするなら日本はBE文化といわれるようです。でもどちらにしろ一長一短があって、そこに自分がないとか他者が存在しないかだったら社会は歪み、網目は破壊されるか、一部の人だけが生き残る地球にかわるかでしょう。私は一部の人だけが生き残る社会であってほしくないと思っています。

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2023-05-15 [思うこと]

 家の近くに曹洞宗のお寺があります。何年か前思い余ることがあってお寺を訪ねました。
その時、帰り際に高齢の住職が一冊の本をくださいました。その本を折りおりに読んでいます。
釈迦の教えについて私の理解は乏しいと思うのですが、少しずつ読みすすめていると少しずつ、ああそういうことかと分かってくることがあります。これは大事と思ったことを書き留めていこうと思います。

 同時

 同時というは不違なり、他にも不違なり  法句教

 この意味は「自分と他人は分け隔てがない」『水集まりて海となる』つまり自己と、自己を囲むすべての人や物との間に垣根を作らないこと。人を敬う心や自然を大切にする心を忘れたとき、争いが起きるということ。
  殺すことなかれ 殺させることなかれ
  差別することなかれ
  差別を許すこと慣かれ
  美しき地球と未来を子供らに


 自分の確立

 私が見ている世界、私に見えている世界はあまり明るくはありません。そんなに暗く世界が見えるのは不幸かもしれないと思います。しかし安心したいばかりに、明るく希望があるように思いたいばかりに自分にみえる事実を変えることができるでしょうか。
暗いばかりがわたしでもないように思います、いかようにも変化しています。刻刻と。長い時間の中で一瞬の休みない記憶の積み重なりの中で、私は何だろう?
 禅の教えの根本は自分の確立だそうですが

 おのれこそおのれのよるべ
 おのれを措きて誰によるべぞ
 よくととのえしおのれにこそ
 まこと得がたきよるべをぞ得ん

 私の中に私なくでは、「どこに進もう、どう生きよう」が定まりません。
人は同時であることから逃れられないから、素直な人は自分を持たず多と自分を同化させて自分を持ちません。自己放棄や依存は自分らしく自分の一生を生きることにならないのでは思います。


 こころの病って何でしょう。

心の病って何ですかという質問に皆さんはどういう答えをされるでしょう。
私には答えがわからないのですが精神医学者なら明確な答えをするのかもしれません。

 不調や苦しみ、それらが長く続いた状態とか、固着や強弱だとしたら、心の病は存在する世界のなかで作られるものだと思います。つくらないように努めるのが自分(個人)のすべき役目なのかなと思います。しかしその私はなんとひ弱なことか、つぶれそうになりながら、、、

「自分の命を大切にしなさい」という釈迦の教えをだれにも届けたいと思います。


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