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近況報告です。

ブログのアカウントも忘れてしまったくらい更新していませんでした。
何とか、やっとこそっとこ元気です。この一か月ほど何とか本の完成をしたいとパソコンの前に座って、何度も修正加筆を繰り返し、ときには朝食抜き、遅い朝食昼食一緒になったりしながら、やっと製本印刷の注文までこぎつけました。
目がしょぼしょぼ、視力の減退、足腰の弱り、家事の手抜き、これでは本の完成か、健康破壊かの二者選択状態で夫は何してんだかという気持ちでみていたことでしょう。
自己満足にもならないかもしれませんが、ともかく完了、製本発注したことでホットしています。
時々散歩する千葉公園、古代蓮が一番見ごろだったころからしばらくぶりです。千葉公園は工事中で通行止めの箇所が多く、ずいぶん遠回りを余儀なくされました。
そのときの写真です。
縮小サイズ.jpg 古代蓮


縮小さいず2.jpg
 アガパンサス

自己肯定感ってなに?
 自己肯定感って何だろうと考えてしまうのはひどく憂鬱な気持ちを払拭できないためかもしれません。なぜ憂鬱なのかと考えてみると必ずしも私自身、個人のことではないように思います。八十有余年生きてこれて、それなりに自分としては納得し有難たかったと思います。残されたわずかな時間もなんとか自分なりに生きていこうと思うのですが、もしそれが無理だったとしても悔いはないだろうと思います。それなのになぜ、憂鬱なのだろうかと考えるとどうしても人間の未来が明るいのだろうかという疑問から離れられないためのように思います。
私にも孫たちがいます。大切で可愛い彼らですが、彼らが成長したその時、世界はどういう世界になっているかを考えたとき、私は楽観的に明るい予想を手放しですることができません。利己的力の拡大は人間の本性の一面で、もし他者の存在への配慮、尊重がなければ成長はおろか、ゆがみと闘争の歴史を繰り返すことになるでしょう。あるいは一部の支配者の支配にゆだねられることになるかもしれません。
社会の実際の姿を見たとき、私にはとても人間的で幸せな社会には思えない、肯定できない、否定したいものを全部ではないとしても感じ、そういう現実への反発や忌避から逃れられない。もしそれが自己肯定感の低さだと人が言うなら、それは間違いです。人間は人間らしくありたいという願望が自己肯定の基礎だと思うからです。一部に強調されている自己肯定感を称揚し、自己否定を否定することは正しいことではないと思います。納得できないことを納得できないとし、いやだということを嫌だと自己の本心を肯定することが本来の彼の命を肯定することになるでしょう。
 ごまかしや偽善ではなく、本当の納得、肯定を目指して生きることが人が生きる意味ではないかと思います。それらが保証された世界こそ平和な理想社会なのではないかと思います。


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2023-05-15自己肯定について ブログトップ

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