SSブログ

歩き疲れて。

靴を買おう。私が今はいている靴はかれこれ十年くらいはいているのではと思います。幅広でとてもなじんで歩きいいのです。と言ってもところどころ破けています。ホームレスのおじさんでもこんな破れ靴は履いていないでしょう。なぜ買わないのか、靴を買う経済的余裕がないからでもあるのですが、もう一つの理由は他人の目を気にしなくなったからかもしれません。それっていいのかな。さすがに人に会うような外出ではこの靴は履けません。そこでとうとう靴屋を目指して歩き始めたのですが、めっきり靴を売る店がなくなりました。この靴を買ったお気に入りの店もなくなりました。駅中に一軒だけある店もデパートも高いのです。こんなにどこも高いのかしらんと安いところを目指していたのですが、とうとう一時間も歩いているのに見つかりませんでした。へたへたになって帰宅することに。歩いた歩数は七千歩越えでした。疲れるとどうしても前傾になるのですね。娘が土曜日か日曜日なら一緒に行ってくれるとありがとう。


nice!(5)  コメント(3) 

民主主義と個を考える 2

 ---なぜ国民が参加したくない文脈で、国家間の戦いが起きるか、ということです。これは、米国人にも、ヨーロッパ人にも、ロシア人にも当てはまります。そして、日本人にも当てはまると思います。つまり、現在のゲームは国家間のものであり、国民や民族間のものではないのです。---エマニュエル・トッド歴史家、文化人類学者、人口学者。

 ネットを開いていた時、エマニュアル・トッドさんの本の紹介で上記のような言葉がありました。第三次大戦はすでに始まっているという人もいます。第二次大戦と次代の戦争は続いている、あるいは形を変えて進行しているともいえるのではないかと思っています。エマニュエル・トッド氏が言うように世界の指導権、または支配権をえたいと考える国や人々はいつも存在し、そういう力は強大なものだと思います。現代のゲームを行っているのはそういう人たちで、国民や民族間のものではないと言われるゆえんでしょう。支配や人への優位など望まない、人と人のfifty fifty の関係、平和を望む人間のほうが圧倒的に多いのだと思います。
 ウクライナとロシアの戦争、一刻も早く止めてほしいと思います。自分が考える正義を守ることも大事かもしれませんが、それ以前に戦闘をやめて話し合ってほしいと思います。
しかしなぜ望まない戦争、争いに参加し付き従うようになるのでしょう。
世界のどの国を見渡しても完全な民主主義や自由を実現している国はありません。自由と民主主義を標榜する国でも同じです。
対等平等な関係、平和な関係を作るのに人を殺したり威嚇して黙らせる兵器はいらない。力の行使によらないそういう関係はどのようにして作れるのかが課題になるでしょう。それはもちろん簡単ではなく、過去からの積み重ねのうえにあるのですから一朝一夕につくれるようなものではないのでしょう。
国の発展、経済力が強力な殺傷力、支配力をもつ兵器産業、軍事産業と一体化した国の在り方が私にはとても恐ろしく思われます。
少子高齢化はもう何十年も前に予測できることでした。戦争で人と国土を失い疲弊した後、目覚ましい経済復興と人口増があった後、低成長と人口減へ移ってきました。これからの社会は無理な成長より人間の命にあった、幸せな社会の実現に向くべきではないかと思います。子どもを育てることも楽しみに、彼らの成長とともに次の世代につながるとき人口減は止まるのではと思います。



nice!(3)  コメント(2) 

一日がはじまり。

 未知なるものを知りたいという根源的な好奇と探究心と自己防衛本能ゆえの言動
人を動かしているものはきっとこういう力なのだと思う。
老いの一日がはじまります。
六時半に目覚ましが鳴りだす。止めて布団の中でもぞもぞ手足を動かし、マッサージをして固まっていた筋肉が動き始めたところで起き上がる。
やらなきゃならないこと、やりたいことが山のようにあるのにちっとも進まないことに焦り、いらいらした気分になるが、でもすぐに焦っても仕方がない、やれることをやるだけと思い直すのは年齢を重ねたからか。
朝食の用意,全粒粉パンにミックスチーズ、ウインナーソーセージのトースト、ミックスレタスにキャベツの千切りサラダ、なつめやしにくるみ、コーヒー。
最近の朝食の定番のひとつ。健康を考えた結果選んだのだけれど、決めていると悩まないで済む。二百近くまで高くなっていた血圧がこのところ百四十くらいまで下がり、健康なお通じに、この分だとこれでいいのかもと思う。
古紙回収が間もなくあるので急いで新聞に目を通し、たまっている新聞の切り抜きをする。二時間ちかくかかる。
入来元プロ野球選手の事故死が伝えられている。二千四年の現役引退後の生活は苦しかったようだ。浪費と離婚、短期雇用で日銭を稼ぐときもあったという。弁当店で唐揚げの揚げ方を注意されたのが耐え切れないで店を飛び出し転職など、「野球以外に何をしていいか分からない。プライドもあって心の調整ができなかった」とテレビ番組で号泣したこともあったそうです。
男の生き方難しい。
「何をしたらいいか、どう生きたらよいか」分からない苦しさは多くの人に重なるのではないだろうか。
朝日新聞朝刊の「折々の言葉」をいくつか切り抜きました。
この年になってやっと、私は忙しく、思っていてもやれないで残ってしまうことが多い毎日だけれど、中心になるもの、芯のようなものがはっきりしてきたように思います。「何のために生きるのか、何をしてどのようにして生きるのか」は人生の根っこの問題だけれど、それがはっきりしたように思える
のです。
細部ははっきりしないこともある。結果などもちろんわからないし、わからなくてよいのだのだと思う。ただこうと思う生き方、努力をすること以外にないのではとこの頃心が定まったように思います。
毎日の報道、心がふさぐようなニュースばかりで、人類はここまで来てしまったのかと。
なぜ?なぜ人は平和な暮らしを手にすることができないのか。人間は進歩しているのか?
疑問が続きます。


nice!(6)  コメント(4) 

民主主義、個ということについて

 民主主義って何?と、これが日本の民主主義ですと言われたら考え込まずにいられないのが事実ではないかと思います。
建前と現実の違いをまざまざと見せつけられて民主主義なんて死語だと考える学生が多いと聞いたように思うのはもう何十年も前でした。
戦後の日本が新しい国つくりの基本としてはじめた民主主義がどう変わったのかというと自分中心主義、能力主義、新自由主義にいれ変わったのでしょうか。
全体主義や独裁的国家主義に対置した個人中心、尊重という理想がやりたいことをやること、弱肉強食の生存競争、それが社会の発展を促し調和も作るという考えにつながったのでしょうか。
明治以前は藩主を頂点とした封建制度、頂点に徳川幕府があり、一方に天皇が在位して、これらの統治治世の下で個とか民主主義という人と人の関係はどうだったのでしょうか。全体としては封建的集団主義だったのでしょうね。日本人が集団に重きを置いて自分より集団の考えに合わせるのも長い伝統からもたらされるのでしょう。敗戦を境に価値観をガラリ変えたのも国や集団の考えに合わせる日本人だからできたことのようにも思います。規範は自分が作るのではなく、上から与えられ降りてくるものとして慣れています。
今は主体がなかった反動からか建前は個人中心になって「落ちるのも高みに上るのもあなたの自由ですよ」という時代。自己責任です、そして社会の有益にならない場合は他人や社会の足を引っ張るな、そんな暗黙の了解が社会の底をながれているようにも見えます。
 個人を尊重しているように見えながら、実際は恐ろしいほど、絶対的天皇制の下で天皇の赤子として国に奉仕することを強制された戦前よりソフトな全体主義になっているのかもしれません。
 なぜそうなるのだろうと考えると力のある個人、あるいは集団が自分の考えにあわせた政治をおこなうようになるからです。弱肉強食の自由主義とはそういうことだと思います。
 どちらも民主主義ということはできないでしょう。
 本来自分が一番大事で可愛いのが生の本性ですから競争に勝つということになったら他人のこと、社会全体のことなど考える余裕はなく、考えたとしてもそれは自分の利益にどのようにつながるかになるのではないかと思います。
このように自分しか愛せなくなった近代人は自分が愛すべき他者を見失ったとロレンスが書いていると新聞でみたことがありましたが、自己愛だけから出発した人間観、社会観、世界観がどれはど一面的であるかがわかります。
実際は自他は繋がっていてそれ自体ではないから誰もがコスモポリタンとして考えなければ人の命にとって良い社会にはならないのだと思います。
 スピノザという哲学者は「人間の行動はすべて原因によって決定されており、自由などはない(この場合の自由というのは実は自己原因ということ。原因によって規定されていない、純粋の自律性のこと)と考えたそうです。つまり自分に自由があって、自由な意思があるなどということはない。すべて原因によって決定されていると考えたわけです。
 それではどんな罪も悪行も自分の意志ではないということになってしまいますから、そこでスピノザやカント、マルクスなど、自然的社会的因果性を括弧に入れてあたかもそれを超越したかのようにふるまう、それを倫理と考えたということです。あたかも自由があるように「主体であれ、自由であれ」という言葉がすっきりするように思います。自由である自己選択があって選択にたいする責任も生まれます。
カントはそこに道徳をみました。
 民主主義は個の尊重からうまれた社会の原理ですが、すべての個人が生きやすい社会にしたいと思うなら自然(自然的社会的因果)から自由は生まれない、自然的社会的因果を括弧に入れて「主体であれ自由であれ」という言葉を肝に銘じたいと思いました。

 「親はなくても子は育つ」という諺がありますが、坂口安吾は「親があっても子は育つ」といったそうです。わたしは親というのはそれ位の存在なのだとなかなか事実をついた言葉のように思いました。最近強く思うことがあります。親は子どもより賢くてえらい存在なんだなどということはない。親も子も一生懸命生き方を探している、不明だらけの存在なんだと。間違いだらけの影響を与えている親もいます。「親があっても子は育つ」という言葉には考えさせられました。

民主主義はまだ不完全発展途上の理想なのだと思います。そのことをはっきり認識していないととんでもないことになってしまうのではないかと思いました。









nice!(9)  コメント(4) 

やっとであった?

新聞広告で見たゼロからの「資本論」本屋さんで購入しました。
はじめにと第六章を読んでいます。面白い、わくわくです。最近読んでいたなん冊かと合わせ読み終えると私の疑問はほとんど解消するかもです。

この半月ほど血圧が200くらいに急上昇してびっくりでした。
水分(緑茶)をしっかりとり、食べ物をちょっと見直し、血圧を下げる薬をのみはじめました。
少し落ち着いて150くらいになりましたが、これで十分かまだわかりません。
nice!(5)  コメント(4) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。