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老人日記 5

とりわけ八月の一か月は煩雑で、混乱と言ってもいい月でした。
 老齢になるということは、ただ誕生から長い年月がたったということです。生まれたときからこれまで、私の命がたどった経験は次から次へと移り変わって今に至っています。今というこの一瞬しか現実には生きていないのですが、突然すべてが今現れ生まれ出たわけではなく、過ぎ去った過去のうえにあります。
 それで私は過去から今につながる未整理の問題を整理したいと思いました。残り時間はそれほど長くないと思うから。残る時間のために未整理のままに残されている問題を整理したいのだと思います。そしてそれは自分ばかりでなく私の近くの周囲の人にとっても大切なことのように思います。
 年を取ると確かに身体的衰えは進行します。生きていく上で必要なこと、するべきこととか解決しなければならないこととかが無くなるわけでも減るわけでもないのに処理能力は確実に落ちていく。目がかすんで視力が弱くなるとか、長い距離を歩けないとか、耳も遠くなるとか。最近は日々実感です。でもそれは自然でたとえ努力したとしても受け入れるいがいにないことでしょう。自分に合わせて優先順位や重大さの順位をつけて無理をしないで、やりたいと思うことを頑張るしかありません。
 八月は一月30度を超えない日が一日もなかった猛暑、酷暑ともいえる日が続きました。記録を取るようになって初めてのことといいます。
 繰り返される線状降水帯による洪水、土砂崩れ、作物被害、家屋喪失の被害が日本のあちこちを襲い、国外に目を向けると巨大ハリケーン、山火事、大洪水や大干ばつ、南極や北極の氷が解ける、、、自然界の異変、その激しさにおどろかされもしました。地球はもつのだろうか?
 どちらかが相手の息のねを止めるまで止まらないような死闘を繰り返す戦争、紛争地、国家間、民族・部族、宗教、権力者支配層と民衆との闘い。なぜ? なぜ? なぜ? なぜこれらは止まらず繰り返されるのでしょうか。
 疑問への明確な答えは簡単ではないと思います。現実があるから。永久的にか半永久的にか。だから個人が考える問題ではないのかもしれません。この地球上に生きている小さな小さな、一つの命たちが考えることができる問題ではない。「自分」がする、できることは日々の一瞬一瞬をどう生きるかにしかないのでしょう。積み重なったこれまでの結果がわたしの目の前にあるので、ここでしっかり今後のために自分の生活の交通整理が必要なのだと思っています。
 
 それを考える上でとても衝撃的ともいえる二冊の本に出合いました。一冊はインベカオリ著「家族不適応殺」、もう一冊は「ゴールデンボーイ」スティーブン・キング著です。人間、人生、世界、生とは何かを考えさせられる衝撃的な本でした。「ゴールデンボーイ」は「ショーシャンクの空に』で名画として日本でも多くの人に感動を与えた作品の原作「刑務所のリタヘイワース」を含みますがもう一度読みたいとは思えませんでした。「家族不適応殺」は現実の事件から事件の深層に迫ったフィクションではないドキュメントと言える著作です。
 なぜ「家族不適応殺」が衝撃作品だったかは後で詳しく触れたいと思いますが、インベさんの問題意識が長い間私自身感じてきたものとおなじだったからです。

 仏教に「一即多、多即一」という言葉と「天上天下唯我独尊」という二つの言葉があります。この二つは自分と世界は一つで境目はないという「一即多多即一」と「天上天下唯我独尊の一は一である」という一見矛盾することを表しています。

 世界の中でしか生きることができない個人。個人にはだれにも自己愛があります。それはその人が持つ生命力といっていいものでしょう。しかし個人は個人で完結して存在しているわけではない世界の中の存在です。ですから存在はすべて矛盾なのだと言えると思います。
 
 個人(自分)と世界、自己愛ということについて次回考えてみたいと思います。

 


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