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やっと何とか終了にこぎつけられたかな

書いてきた小説、何度も何度も手を入れ直してやっと終わりになったかなと思います。もういい加減終わらないと困るのです。何しろほかのことがおろそかになってしまうので。
もう一度見直して終了にするつもりです。

 散歩。
初夏ですね。花がいっせいに咲き始めました。
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本当はあまり言いたくないのですが。

本当はあまり発言するのは好きではありません。でもああ、これでいいのかしらと思うことばかりが目に入ってしまうのです。
バイデンアメリカ大統領の発言はアメリカの民主主義は変わらない。民主主義国家対独裁主義国家の対立で民主主義国家は強くなり独裁国家は弱くなっていくだろうという意味の発言をしていました。
同じ日のニュースで岸田総理が日本は世界で最も民主主義が成熟した先進国家と言った後、法の支配のもとの世界平和を推進すると発言していました。
アメリカ西欧の民主主義と中国ソ連の独裁国家の対立という単純化に疑問が残ります。バイデン大統領の民主主義国家という考えも岸田総理の発言も単純すぎ、おそらくとても現実を反映しない、思い込みあるいは欺瞞のように思います。
二人の発言が民主主義や法の支配のもとに世界が平和に発展してほしいという願望としての発言なら理解できます。
 
民主主義とは何か。日本は本当に成熟した民主主義国と言えるのかという問題です。
日本の民主主義は建前に近く崩壊しつつあると言ってもいいくらいな現状ではないでしょうか。なぜならあまりに政権を握り実行する人達の力に対して民意が弱く選挙でも働かないからです。民主主義も民主主義的ルールも主体は国民で、国民の意志を反映して作られなければならないはずですが構想と実行は遊離している。基本的には構想と実行が乖離すべきではなく、構想する人と実行との関係に距離があればあるほど人間の阻害が生まれています。
西欧諸国では人々の政策決定への参加が進んできたのだと思いますが、ここでも強弱の関係は存在します。民主主義は放っておいて一人で成り立つものではないと西洋の人々は知っているのだと思います。
アメリカは民主主義の国と言われますが、強大なのは利潤追求の資本の力で、アメリカの利益、資本の利益がアメリカを代表し、世界への影響を求めています。しばしばダブルスタンダードで他国自国の個人の命の尊重がされたのでしょうか。
アメリカの実際を知らない私には答えが見つかりません。
インクルージョン(包摂)とダイバーシティ(多様性)という言葉、これ日本語?と思うくらい耳にすることが多くなりました。
気になって調べてみると資本にとっての包摂と多様性ということが問題になっているのかと思います。
一層の資本の利潤追求としての多様性や包摂ではなく、実在する人間の実存という問題と認識という人にとっての基本的な課題からこそ考えたい問題と思います。




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年を取るってこういうことかって、、、。

年を取るって、ああこういうことなのねって思うことが増えました。誰にも赤ん坊の時があり、働き盛りの時があり、年も取る。それが人の命の自然ですから、どんな時も大切だろうと思います。でもこの頃本当に命が大切になっているのかなと考えさせられることが多くなりましたね。いやむしろどんどん命が細り粗末になっているのではと、人類の進歩は明るいばかりではないと。
「ゼロからの資本論」読み終わりました。マルクスや資本論は若いころから聞いていましたがキチンと考えたわけではなかったと思います。あらためて戦後から78年が過ぎた現代になって、人間社会の歴史、歩みがとてもよく見えてきて問題がなにかもはっきりし始めているように思います。
これからの若い人たちの課題、おおきいですね。
年寄りも自分が歩いてきた時間を振り返って考えてみたい、何か次の世代に語り残すべきことがあると思います。でも思うことがあっても言葉にして表現することは簡単ではないですね。
 私の同級生は郷里で農業をした人が比較的多くいます。江戸時代に干拓されてから、広い農地や山林、沼沢地など自然が豊かな土地ですが、今専業農家はほとんどなく、若い人は皆かっての村から離れ、高齢化が進んでいるそうです。こんなに豊かな自然がある地方が過疎化するのはなぜなのかなと思います。

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歩き疲れて。その二

 家の近くに食肉工場直営の店があるので買いに行きました。順調なら三十分ほど歩けばいい距離なのですが、散歩を兼ねて車の往来が激しい国道から横道に入ったら、どこをどう歩いているのか、同じような住宅街に迷ってしまいました。ぶつかった公園で一休み。青いよく晴れた空に真っ白に咲く雪柳に子供のころの生家の庭を思い出し写真をとってしまいました。
体は前かがみへとへとになって帰宅。いい運動にはなりました。
 これは前回の話、今日も雨の中、WBC優勝記念豚肉の安売りと言いますので出かけました。少しまとめ買いしたので今回もへとへとです。途中のコンビニによってコーヒーを飲んで一休みしているところに友人が買い物にきて話ができました。
 難解な資本論がだれにでもわかるような本と言われる斎藤幸平さんの「ゼロからの資本論」を読み始めて生まれてから八十年の歩みがよく理解できます。富と利潤の違い、考えてもいなかったなあと思いました。
もう残り時間、いつまでか分からない年になってしまいましたが、いまになって勉強したいことばかりが山積です。
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生きる。

「人間個々の自立的な自己決定能力を前提にし、そうした人間たちの自由な結合体としての社会を構想したのがヨーロッパ近代だったとすれば、ここで表明されているのはそうした近代の構想への根本的な疑念である。人間はそうした自由に耐えうるほど立派な生き物ではないのではないだろうか」

 この言葉は地下鉄にサリンがまかれるという事件(1995年)があった後、「されどわれらが日々」の著者である柴田翔氏が新聞に書いていたコメントです。
今の時代を見るとますますこの言葉にうなづかずにいられない気持ちがします。

 今「オレ様化する子どもたち」諏訪哲二著を昔読んだときのことを思い出しもう一度読んでいます。

戦後の教育改革から現在まで、どう変わってきたのか、子供はどう変わったのか、のみならず現代をどうとらえるか。著者のかなり本音が出ている本なので見方考え方議論のあるところだと感じるところがあります。しかし今に続く問題が提起されていてさらに議論が深められ発展させることが必要なのではと感じました。民主主義、個、主体、自由といった問題をしっかり考えなければ次の時代を失うかもしれません。


 個人も宇宙世界も一色ではなく多色で多様で、しかもグラデーションがかかっていてメルビュスの輪なのですね。しかしそこに私(個人)はいます。希望することをやめない個人がいます。

 民主主義ってとても足元の具体的な人間関係からはじまるのですね。そう考えたとき希望がふくらみます。



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歩き疲れて。

靴を買おう。私が今はいている靴はかれこれ十年くらいはいているのではと思います。幅広でとてもなじんで歩きいいのです。と言ってもところどころ破けています。ホームレスのおじさんでもこんな破れ靴は履いていないでしょう。なぜ買わないのか、靴を買う経済的余裕がないからでもあるのですが、もう一つの理由は他人の目を気にしなくなったからかもしれません。それっていいのかな。さすがに人に会うような外出ではこの靴は履けません。そこでとうとう靴屋を目指して歩き始めたのですが、めっきり靴を売る店がなくなりました。この靴を買ったお気に入りの店もなくなりました。駅中に一軒だけある店もデパートも高いのです。こんなにどこも高いのかしらんと安いところを目指していたのですが、とうとう一時間も歩いているのに見つかりませんでした。へたへたになって帰宅することに。歩いた歩数は七千歩越えでした。疲れるとどうしても前傾になるのですね。娘が土曜日か日曜日なら一緒に行ってくれるとありがとう。


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民主主義と個を考える 2

 ---なぜ国民が参加したくない文脈で、国家間の戦いが起きるか、ということです。これは、米国人にも、ヨーロッパ人にも、ロシア人にも当てはまります。そして、日本人にも当てはまると思います。つまり、現在のゲームは国家間のものであり、国民や民族間のものではないのです。---エマニュエル・トッド歴史家、文化人類学者、人口学者。

 ネットを開いていた時、エマニュアル・トッドさんの本の紹介で上記のような言葉がありました。第三次大戦はすでに始まっているという人もいます。第二次大戦と次代の戦争は続いている、あるいは形を変えて進行しているともいえるのではないかと思っています。エマニュエル・トッド氏が言うように世界の指導権、または支配権をえたいと考える国や人々はいつも存在し、そういう力は強大なものだと思います。現代のゲームを行っているのはそういう人たちで、国民や民族間のものではないと言われるゆえんでしょう。支配や人への優位など望まない、人と人のfifty fifty の関係、平和を望む人間のほうが圧倒的に多いのだと思います。
 ウクライナとロシアの戦争、一刻も早く止めてほしいと思います。自分が考える正義を守ることも大事かもしれませんが、それ以前に戦闘をやめて話し合ってほしいと思います。
しかしなぜ望まない戦争、争いに参加し付き従うようになるのでしょう。
世界のどの国を見渡しても完全な民主主義や自由を実現している国はありません。自由と民主主義を標榜する国でも同じです。
対等平等な関係、平和な関係を作るのに人を殺したり威嚇して黙らせる兵器はいらない。力の行使によらないそういう関係はどのようにして作れるのかが課題になるでしょう。それはもちろん簡単ではなく、過去からの積み重ねのうえにあるのですから一朝一夕につくれるようなものではないのでしょう。
国の発展、経済力が強力な殺傷力、支配力をもつ兵器産業、軍事産業と一体化した国の在り方が私にはとても恐ろしく思われます。
少子高齢化はもう何十年も前に予測できることでした。戦争で人と国土を失い疲弊した後、目覚ましい経済復興と人口増があった後、低成長と人口減へ移ってきました。これからの社会は無理な成長より人間の命にあった、幸せな社会の実現に向くべきではないかと思います。子どもを育てることも楽しみに、彼らの成長とともに次の世代につながるとき人口減は止まるのではと思います。



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一日がはじまり。

 未知なるものを知りたいという根源的な好奇と探究心と自己防衛本能ゆえの言動
人を動かしているものはきっとこういう力なのだと思う。
老いの一日がはじまります。
六時半に目覚ましが鳴りだす。止めて布団の中でもぞもぞ手足を動かし、マッサージをして固まっていた筋肉が動き始めたところで起き上がる。
やらなきゃならないこと、やりたいことが山のようにあるのにちっとも進まないことに焦り、いらいらした気分になるが、でもすぐに焦っても仕方がない、やれることをやるだけと思い直すのは年齢を重ねたからか。
朝食の用意,全粒粉パンにミックスチーズ、ウインナーソーセージのトースト、ミックスレタスにキャベツの千切りサラダ、なつめやしにくるみ、コーヒー。
最近の朝食の定番のひとつ。健康を考えた結果選んだのだけれど、決めていると悩まないで済む。二百近くまで高くなっていた血圧がこのところ百四十くらいまで下がり、健康なお通じに、この分だとこれでいいのかもと思う。
古紙回収が間もなくあるので急いで新聞に目を通し、たまっている新聞の切り抜きをする。二時間ちかくかかる。
入来元プロ野球選手の事故死が伝えられている。二千四年の現役引退後の生活は苦しかったようだ。浪費と離婚、短期雇用で日銭を稼ぐときもあったという。弁当店で唐揚げの揚げ方を注意されたのが耐え切れないで店を飛び出し転職など、「野球以外に何をしていいか分からない。プライドもあって心の調整ができなかった」とテレビ番組で号泣したこともあったそうです。
男の生き方難しい。
「何をしたらいいか、どう生きたらよいか」分からない苦しさは多くの人に重なるのではないだろうか。
朝日新聞朝刊の「折々の言葉」をいくつか切り抜きました。
この年になってやっと、私は忙しく、思っていてもやれないで残ってしまうことが多い毎日だけれど、中心になるもの、芯のようなものがはっきりしてきたように思います。「何のために生きるのか、何をしてどのようにして生きるのか」は人生の根っこの問題だけれど、それがはっきりしたように思える
のです。
細部ははっきりしないこともある。結果などもちろんわからないし、わからなくてよいのだのだと思う。ただこうと思う生き方、努力をすること以外にないのではとこの頃心が定まったように思います。
毎日の報道、心がふさぐようなニュースばかりで、人類はここまで来てしまったのかと。
なぜ?なぜ人は平和な暮らしを手にすることができないのか。人間は進歩しているのか?
疑問が続きます。


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民主主義、個ということについて

 民主主義って何?と、これが日本の民主主義ですと言われたら考え込まずにいられないのが事実ではないかと思います。
建前と現実の違いをまざまざと見せつけられて民主主義なんて死語だと考える学生が多いと聞いたように思うのはもう何十年も前でした。
戦後の日本が新しい国つくりの基本としてはじめた民主主義がどう変わったのかというと自分中心主義、能力主義、新自由主義にいれ変わったのでしょうか。
全体主義や独裁的国家主義に対置した個人中心、尊重という理想がやりたいことをやること、弱肉強食の生存競争、それが社会の発展を促し調和も作るという考えにつながったのでしょうか。
明治以前は藩主を頂点とした封建制度、頂点に徳川幕府があり、一方に天皇が在位して、これらの統治治世の下で個とか民主主義という人と人の関係はどうだったのでしょうか。全体としては封建的集団主義だったのでしょうね。日本人が集団に重きを置いて自分より集団の考えに合わせるのも長い伝統からもたらされるのでしょう。敗戦を境に価値観をガラリ変えたのも国や集団の考えに合わせる日本人だからできたことのようにも思います。規範は自分が作るのではなく、上から与えられ降りてくるものとして慣れています。
今は主体がなかった反動からか建前は個人中心になって「落ちるのも高みに上るのもあなたの自由ですよ」という時代。自己責任です、そして社会の有益にならない場合は他人や社会の足を引っ張るな、そんな暗黙の了解が社会の底をながれているようにも見えます。
 個人を尊重しているように見えながら、実際は恐ろしいほど、絶対的天皇制の下で天皇の赤子として国に奉仕することを強制された戦前よりソフトな全体主義になっているのかもしれません。
 なぜそうなるのだろうと考えると力のある個人、あるいは集団が自分の考えにあわせた政治をおこなうようになるからです。弱肉強食の自由主義とはそういうことだと思います。
 どちらも民主主義ということはできないでしょう。
 本来自分が一番大事で可愛いのが生の本性ですから競争に勝つということになったら他人のこと、社会全体のことなど考える余裕はなく、考えたとしてもそれは自分の利益にどのようにつながるかになるのではないかと思います。
このように自分しか愛せなくなった近代人は自分が愛すべき他者を見失ったとロレンスが書いていると新聞でみたことがありましたが、自己愛だけから出発した人間観、社会観、世界観がどれはど一面的であるかがわかります。
実際は自他は繋がっていてそれ自体ではないから誰もがコスモポリタンとして考えなければ人の命にとって良い社会にはならないのだと思います。
 スピノザという哲学者は「人間の行動はすべて原因によって決定されており、自由などはない(この場合の自由というのは実は自己原因ということ。原因によって規定されていない、純粋の自律性のこと)と考えたそうです。つまり自分に自由があって、自由な意思があるなどということはない。すべて原因によって決定されていると考えたわけです。
 それではどんな罪も悪行も自分の意志ではないということになってしまいますから、そこでスピノザやカント、マルクスなど、自然的社会的因果性を括弧に入れてあたかもそれを超越したかのようにふるまう、それを倫理と考えたということです。あたかも自由があるように「主体であれ、自由であれ」という言葉がすっきりするように思います。自由である自己選択があって選択にたいする責任も生まれます。
カントはそこに道徳をみました。
 民主主義は個の尊重からうまれた社会の原理ですが、すべての個人が生きやすい社会にしたいと思うなら自然(自然的社会的因果)から自由は生まれない、自然的社会的因果を括弧に入れて「主体であれ自由であれ」という言葉を肝に銘じたいと思いました。

 「親はなくても子は育つ」という諺がありますが、坂口安吾は「親があっても子は育つ」といったそうです。わたしは親というのはそれ位の存在なのだとなかなか事実をついた言葉のように思いました。最近強く思うことがあります。親は子どもより賢くてえらい存在なんだなどということはない。親も子も一生懸命生き方を探している、不明だらけの存在なんだと。間違いだらけの影響を与えている親もいます。「親があっても子は育つ」という言葉には考えさせられました。

民主主義はまだ不完全発展途上の理想なのだと思います。そのことをはっきり認識していないととんでもないことになってしまうのではないかと思いました。









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やっとであった?

新聞広告で見たゼロからの「資本論」本屋さんで購入しました。
はじめにと第六章を読んでいます。面白い、わくわくです。最近読んでいたなん冊かと合わせ読み終えると私の疑問はほとんど解消するかもです。

この半月ほど血圧が200くらいに急上昇してびっくりでした。
水分(緑茶)をしっかりとり、食べ物をちょっと見直し、血圧を下げる薬をのみはじめました。
少し落ち着いて150くらいになりましたが、これで十分かまだわかりません。
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